辺りは漆黒に包まれていた。
意識は未だにぼんやりと霞んでいる。立ち尽くしたまま……否、倒れているのだろうか。
(倒れている、筈だ)
徐々に意識を覆っていた霧が晴れてゆく。それに伴い、記憶が色づき始める。
そもそも目覚める筈は無かった。灼熱の刃は確かにこの胸を貫いたのだ。重い腕を動かして、確かめてみる。其処には痛みも無ければ、貫かれた跡すら残っていない。
(どういうことだ)
あれだけあった喧騒は欠片も残っておらず、風や虫の音すら聞こえない。
纏わり始めた焦燥を振り払って、体を起こそうと身を捩る。感触だけを頼りに底の見えない闇を踏みしめて、立ち上がれたのだとわかった。
(彼の人は……)
無事に、落ち延びてくれただろうか。
一緒に来い、そう叫んでいた光景が何度も瞬いては消える。不謹慎だが、思わず口元が綻んだ。昔、優しかった彼の人は人の上に立つ立場になっても尚、変わらずにいてくれた。
(……約束を果たさなければ)
真っ暗で目印となるものが何も無かった。これでは帰るに帰れない。
(此処は、何処なんだ)
途方に暮れて辺りを見まわしていると、突然先の方に一点に小さな光が現れた。敵か味方か。とにかく今は其れのもとへ行く他はない。足を踏み出してみると一歩進んだ感覚がして、歩けるのだと確信した。
遠くからは米粒程だったその光は、己の身丈程の大きさをしていた。覗き込むと、何かを映し出している。
(これは……)
見覚えのある、質素な部屋だった。既に日が暮れているのか、行灯が照らされている。そこに彼の人がいた。
(あ……)
驚きを覚えたがそれ以上に、深い怪我の様子も無さそうで安堵する。無事であればいい、その一心だった。
だが、何故だろう。いつもは凛と伸びている背筋は曲がっている。痛々しいその姿に思わず手を伸ばした。が、その瞬間、雷が走ったような衝撃に弾かれる。
(何、だ……これは)
目に見えない薄い膜が波打って、彼の人のいる中への介在を許さない。
(私は此処です)
(聞こえませんか)
(ただいま戻りました)
振り向かなかった。もう一度大声で呼びかけても、やはり振り向かない。
(帰らなければ)
その一念が頭を支配した。闇雲に通り抜けようとしても、幾度も弾かれて、辺りの闇が次第に濃くなってゆく。彼の人からも遠ざかって行く様だ。
帰る
帰る、帰る
帰る、帰る、帰る。
帰る、帰る、帰る、帰る。
帰る、帰る、帰る、帰る、帰る。
強く思えば思うほど、身体は闇に沈んで身動きが取れなくなってゆく。
(気付いて下さい)
(遠い、ずっと遠い、昔から)
(今も、)
光の中にいる彼の人へと手を伸ばして必死に叫んだその時、呼応するように彼の人がこちらに振り向いた。
(あ……)
途端、目に入ったそれに言葉を無くす。彼の人が、その背で隠すように抱えていたのは、自分の代わりにと渡した……。
(……そうか)
そこで気が付いた。
(そうか、終わっていたのか)
絡み付いていた闇は溶けて、身体の自由が解かれる。
そうだ。終わっていた。火薬と血の匂いまみれたあの地で、土に倒れた、あの時から。
(もう、出来る事は何も無いのだな)
彼の人を映していた光がいっそうその強さを増した。もはや彼の人は見えない。だが、今度は追い縋る様なことはしなかった。出来ないと、わかっていた。
どこからか滲んできた疲労感に、目を閉じる。沈んでいくような感覚に不思議と安らぎを覚えた。
(彼の人の願いを、遂には叶えてあげる事が出来なかったけれど)
きっと、これでいい。
懐かしい緑と土の匂いが鼻を擽った。瞼の裏に浮かんだのは何故だか幼い頃の彼の人で、久しく見ることの無くなった顔で笑っていて、つられて笑った。二人で、笑った。
薄くなった夏が二人の間を通り過ぎる。陽の沈む山の向こう側へと走っていったそれを、長く眺めていた。そのうち意識は吸い込まれるように其処へと向かって。
白く霧散した。
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